おかえり

投稿者:
ライフネット生命 スタッフ

歳を重ねるごとに、1年という単位があっという間に過ぎていきます。そして、1年前のことよりも、10年前だったり、15年前だったり、けっこう昔のことのほうが鮮明に浮かんできます。それくらい、親の庇護のもとで、もしくはまだ学生の身分で、当時は余裕があったということなのでしょうか。

痛みも悲しみも知らず、まるで「自分はなんでも知っている」とばかりに無鉄砲な厚顔無恥。気楽なものでした。もちろん、加齢と引き換えに無くしたものも、忘れてしまったこともありますが、それでも、昔に戻りたいかと言われれば、そうでもありません。今ある幸せを噛みしめています。

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1年前の3月11日。東日本大震災が起こりました。何が何だかわからず、揺れがおさまった直後、保育園に電話をかけました。今思えば軽率な行動だったかもしれませんが、子どもの安否を確認したくて、保育園から「大丈夫です」という一言を聞くまで、手が震えていたのを覚えています。

帰り道、少しでも恐怖を紛らわすために、饒舌になっている自分がいました。幸い、ひと駅手前まで同僚と一緒に帰ることができ、ちょっとした耐久遠足に挑んでいる、そんな気分にさえなりました。こんな体験はそうそうできないぞ、そんな風に考えてみようかとも思ったほどです。

しかし、時間が経つごとに不安や心配が頭をもたげてきます。

“歩いても、歩いても、なかなか家に近付かない。どうやら家の方は停電しているらしい。子どもはどうしているのか、ご飯は食べられたのだろうか、怖くて泣いてはいまいか。無事に家にたどり着けたとしても、明日からどうしたらいい?大きな余震の可能性がある中、また子どもを預けて、長時間離れた場所で仕事をするわけで、それが良い選択なのか?”

生活の安心が脅かされるということは、こんなにも人を悲観的にさせるんですね。

この数日、どうやら逃れられそうもない次の災害のニュースが多く、気を緩めるとまた不安でいっぱいになってしまいそうになる中、改めて思うのは、今の暮らしを守りたい、ということです。ただいまと言えばおかえりと言う。おかえりと言えば、それでも、おかえりと言う。帰るところであり、拠りどころでもある、そんな、子どものいる生活も、子どもも、失いたくない――

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その日の夜、すでに時計は0時を回り、日付も変わったころ、やっと家に着きました。ドアを開けると、真っ先に飛び込んできたのは子どもの顔。そして、母親が作っておいてくれた、大好物のいなり寿司の香り。私が子どもの名前を呼ぶが早いか、いつものように、走り寄ってきて「おかえり!遅かったね!」と。「ママ、今日はお誕生日だったから、僕、起きて待ってたよ (^^)」

そう、何の因果か誕生日でした。ひとつ歳を重ねたその日に、災害により多くの命が奪われたわけで、未だに、おそらくこれからもずっと、喜びとは程遠い思いを抱くことでしょう。そのかわり、次の1年もまた元気な「おかえり」が聞けるよう祈り、それまで「おかえり」と言ってくれたことに感謝する日にしようと思います。

意識しなければ記憶にさえとどまらないほど忙しい日々。老いと若さを天秤にかけて、ひたすら過去を振り返ることも別に悪くはないですが、それでも、やっぱり、今日の「おかえり」が何よりです。


マーケティング部 川端


*家のチューリップです。子どもがお世話をがんばっています (^^)

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