ハレとケ

投稿者:
ライフネット生命 スタッフ

コンタクトセンターの西村です。

東日本大震災から3ヶ月が経とうとしています。

当日、近くのスーパーでちょうどレジに向かっていました。
通り過ぎたお酒のコーナーでビールの缶が倒れ、「あれ、当たってないと思うけど倒しちゃったのかな」と思ったところ、後ろでワインの瓶が倒れて割れてました。
店員が「揺れてる」と言ったところで地震と理解するや否や大きな揺れを体感し外へ出ると、地面が絨毯のように波打つような感覚がありました。

生まれてから初めての大きな地震を経験しましたが、感じたことを一つ。

今まで、音楽やその他エンターテインメントを含めた広義の意味での芸術の力はどんな時でも一番力を持つもの、救世主になりうるものだと思ってました。
しかしながら震災直後はもちろん自粛や中止などを余議なくされ、その力を発揮できず、また人々にはその力を求める余裕もない。

非日常のハレと日常のケという言葉がありますが、ケの中だからこそハレが成り立つというところでしょうか。
これまで、ケの時はもちろん、ケが崩れた時こそハレの力が必要で、その真価が問われるものだという思いに対し、その真価を問うこともできず、誰もその力さえ発揮させることができなかった震災後しばらくの間、芸術は日常があってこそのもので、それを超えられないのかという現実に何とも言えない無力感を感じました。

徐々に日常が取り戻され、それに伴ってハレも求められるようになってきましたが、日常が崩れた只中で、日常を取り戻すためにその力を発揮できる芸術はあるのか。

余震が頻発するあの何とも言えないヒリヒリとした直後しばらくに率直に感じたことでした。


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