悲しい事に、追放された理由がわからない

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ライフネット生命 スタッフ

◆例文1:今月の[漢詩集]について[感想]を言い合い、[次号]の[発]売を[待]つ。
◆例文2:[屋根]が[曲面]になっている中[央]体[育館]で、[短]い[開]会[式]を行った。
◆例文3:[和服]と[洋服]のどちらを[着]るか[相談]したが、[両]方を[持]って[旅]に出た。
◆例文4:やけた[炭]を[注意深]く見ると、[昔]の書[庫]の[柱]だった。
◆例文5:[銀皿]の上に道[具]をならべて、作[業]の[予習]をした。
◆例文6:[悲]しい[事]に、[追放]された理[由]がわからない。
8月 吉見さん.jpg

小学3年生の長男の漢字プリントより抜粋しました。[ ]内が小学3年生の学習漢字です。
確かに、漢字は単体の文字として学ぶよりも、熟語として学んだ方が遥かに実用的です。熟語はより豊穣な言葉の世界へと導いてくれます。なので、熟語で学習するのは大賛成。
なのですが、熟語を並べて敢えて例文をつくるのは・・・難しいですね。おそらく、この例文を作成された方は相当苦労されたと思います。せっかくの労作ですので、この例文を味わってみることにしました。

◆例文1:【今月の漢詩集について感想を言い合い、次号の発売を待つ。】
漢詩集です。月刊で発売されているそうです。名詩撰といった撰集が定期刊行される、というのはありそうですが、詩集と言い得るボリュームのものが、毎月書き下ろしで刊行されているとは。そして、それを心待ちにしている固定ファンがいるとは。雌伏の時を経て、漢詩ブーム到来。の予感がします。

◆例文2:【屋根が曲面になっている中央体育館で、短い開会式を行った。】
人生のうちで、体育館の屋根の形状に言及することは、それほど多くはありません。味わい深い逸品です。
いや、待てよ。そもそも、この文章の主題は、「開会式の短さ」にあるはず。とかく長くなりがちな(そして無意味な形骸である)開会式が、今回は短くて済んだ。その僥倖を誰かに伝えるべく、この文章は綴られたように思うのです。にも拘らず、なぜか、中央体育館の屋根の形状に対する執拗なまでの言及が・・・思うに、これは蛇足などではなく、何らかの明確な意図に基づくものではないかと。そして、「曲面」という表現。曲面といっても、いろんなカタチがあります。なので、半球型の、ドーム状の、カマボコ状の、鞍型の、といった身近なもので表現するのが一般的ではないでしょうか。なのに敢えて、抽象度の高い「曲面」という表現に拘泥しています。ここにも何か明確な意図があると解さざるを得ません。これらから推測するに、おそらく中央体育館の屋根は、いわく名状しがたい形状、別言するなら、「曲面」としか表現しようのない、ある種形而上的な形状をしているのではないでしょうか。たとえば、リーマン面やカラビ・ヤウ多様体のような。
(参考)リーマン面 出典:Wikipedia
数学、特に複素解析においてリーマン面(Riemann surface)とは、連結な複素1次元の複素多様体のことである。ベルンハルト・リーマンに因んで名付けられた。
(参考)カラビ・ヤウ多様体 出典:Wikipedia
カラビ・ヤウ多様体は、代数幾何などの数学の諸分野や数理物理で注目を浴びている特別なタイプの多様体。特に超弦理論では、時空の余剰次元が6次元(実次元)のカラビ・ヤウ多様体の形をしていると予想されている。

続いて、例文3~6です。
◆例文3: 和服と洋服のどちらを着るか相談したが、両方を持って旅に出た。
◆例文4: やけた炭を注意深く見ると、昔の書庫の柱だった。
◆例文5: 銀皿の上に道具をならべて、作業の予習をした。
◆例文6: 悲しい事に、追放された理由がわからない。
これらの文章は、どんなシチュエーションに関する言説なのか?いかなる必然性により、これらの文章は存在を許されているのか?難易度上がりました・・・
「想像」の範囲を超えていますので、ここは「妄想」の力を借りることにします。
※妄想なので、以下はすべて架空の設定です。

◆例文3 : 【和服と洋服のどちらを着るか相談したが、両方を持って旅に出た。】
(出典)レティシア・桂子・スペンサーのエッセイ
レティシア・桂子・スペンサーは英国のピアニスト、作家。1955年生まれ。祖父は英国貴族。祖母は日本人で旧子爵家の次女。曾祖父は海軍大将。日英両国の伝統的な家系にルーツを持つため、幼少期は自我の相克に悩むも、青年期以降は両義性を肯定的に受容してアイデンティティを確立。そのアイデンティティの発露ともいうべき音楽性は、西洋的な技巧の極致である「時間の微分」に、日本的な「間」の観念がとり入れられた特異なスタイルといえる。しばしば、「無音の響きを表現できる稀有な演奏家」と評される。
例文は、彼女が初来日(1985年の日本公演)した際の心情を綴ったエッセイ 『錦江湾』 より。自身のルーツでありながらも、「極東の遠い国」としてどこか敬遠し続けてきた日本に対する複雑な思いが赤裸々に語られている。和服と洋服は、彼女のアイデンティティを覆い隠す外套であり、いずれの外套を身に纏うべきかと悩んでいたが、曾祖父の国である薩摩の錦江湾を目の前にして、「外套など纏う必要はない」と思えるようになった。その回心のくだり。「結局のところ私は、【和服と洋服のどちらを着るか相談したが、両方を持って旅に出た。】そのときは、迷うことに迷っていたのだ。」

◆例文4 : 【やけた炭を注意深く見ると、昔の書庫の柱だった。】
(出典)大学入試問題
次の文章を読んで以下の問いに答えよ。
【問】括弧内の「書庫の柱」とは作者にとってどのような意味があるのかを200字以内で書け。
今にして思うと、父がなぜそんなことをしたのか、わかる気がする。父は祖父の三回忌が終わらぬ前に、葉山の家をとり壊してしまった。葉山の家は父と伯母、叔母の育った家であり、私が夏休みを過ごした場所でもある。ただ、私のその家に対する思い出は、「葉山」という地名から連想される明るい色彩に富んだものではなく、どちらかというと、重苦しく陰鬱なイメージがつきまとう。書庫に堆く積み上げられた気難しい本のかびくさいにおいがする。ともあれ、そんな「思い出がつまった場所」を、父は誰に相談することもなく、突然に壊し、燃やしてしまった。伯母は、そんな父の行動が理解できず、電話口で何度も父をなじった。叔母は、おろおろして泣いていた。父は、住人がいなくなった家は、どうせ朽ち果てる。だったら、自分の手で壊した方がいい。そんな意味のことを言っていたように思う。・・・(中略)・・・そんな父も先月逝った。気丈な伯母は葬式をテキパキと切り盛りして、憔悴した母をしきりに励ましてくれた。叔母は、また、おろおろと泣いていた。そんな叔母の姿を見て、十数年振りに葉山の家のことを思い出した。葬式の夜以来、なぜか葉山の家のことが気になったので、行ってみようと思った。住所を調べて行ってはみたが、そこはもう何の変哲もないただの雑木林になっていた。かつて人が住んでいたという痕跡などはどこにもなく。ただ、山側の一角には焼け焦げた炭が転がっていて、その【焼けた炭を注意深く見ると、昔の書庫の柱だった。】それを見て私は、祖父と父の姿を同時に思いだしたのだ。

◆例文5 : 【銀皿の上に道具をならべて、作業の予習をした。】
(出典)日曜朝6時から放映していた15分番組「日本の名工」シリーズ
※久米明さんのナレーションをイメージしてください。
その道具は長さ15センチほどの木製の柄の先端に鋼製の刃が取り付けられている。鉛筆より少し細い。先端の刃は職人自身が鍛造したもので、ほぼ直線に近いものから、鉤状のもの、あるいは、雲形定規のような複雑な幾何学的形状をもつものまで様々なバリエーションがある。一説には数百種以上の形状があると言われる。これらの形状は単なる意匠ではなく、合目的的に計算され尽くした機能そのものである。そして、数百種類あるすべての形状には固有の名前が与えられているという。
職人の朝は早い。まだ日の明けきらぬ午前4時から、道具の砥ぎが始まる。これを「明かし」と呼ぶ。砥ぎにかかる時間はおよそ2時間。その日に使う約60本の道具が丹念に砥ぎ上げられていく。「明かし」が終わると道具は30センチ四方の矩形の皿に並べられていく。皿は純銀製。江戸時代中期から代々受け継がれてきたものだ。そして、ここからが、最も難しい工程である。【銀皿の上に道具をならべて、】観想に入るのだ。これを「坐り」と呼ぶ。いわば、【作業の予習】、イメージトレーニングである。「坐り」が作品の出来、不出来を決めると言っても過言ではない。明治の名工、七代目香山によれば、「坐り」とは「彫らずして彫る。彫りて彫らず。而して、彫らば彫りて、彫らざれば彫らざるなし。」と。

◆例文6 : 【悲しい事に、追放された理由がわからない。】
(出典)大学の講義録
(教授)聖書。あ、旧約の方です。旧約聖書は2つの話からできています。創世譚と原罪譚ですね。創世譚はこの世界の成り立ちに関する物語です。神は最初に何て言いました?「光あれ。」です。で、光があった。これは何を言っているかというと、光と闇とを分けたわけです。次に言ったのは、「水の間に大空があって、水と水とを分けよ」です。大空の上の水と下の水とを分けたんですね。その大空が天です。で、さらにその次に「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」と。これで、陸と海とを分けたんですね。こういうのが6日目まで続く。これが天地創造です。つまり、天地創造とは、神がこの世界を切り分けていくことなんですね。
(教授)で、次に原罪譚。これは有名なアダムとイブの話です。天地創造の終わりに創られたのが人間です。神は、善悪の知識の実を食べてはならないと命令した。にも拘らず、蛇に唆されてこれを食べてしまう。そこでふたりとも裸であることに気付いて恥ずかしくなるわけです。これは何の話かというと、「世界を切り分けること」は神の専権事項であり、被造物である人間はこれをしちゃならんということ。善悪の知識の実を食べるということは、この禁を破って、神の専権事項である「世界の切り分け」を人間が行ってしまうということなんですね。人間には本来できないはずの「世界の切り分け」を、人間が行ってしまう。これが、善悪の知識の実の効能です。できないことをやるので、必ず間違える。ここ、大事なところです。間違う可能性があるからダメだというわけじゃありません。原理的に必ず間違う。だからダメなんです。この、人間は「必ず間違える」ということが宿命付けられていること、これが原罪です。そして、その代償として、人間は楽園から追放されます。ただ、人間は、【悲しい事に、追放された理由がわからない。】ゆえに原罪からは逃れられない。そう考えるんですね。

長男に、「この例文、どういう意味?」と問われれば、上述のような背景文脈(妄想)で説明しようと思います。たぶんすごく嫌がられると思いますが。

以上、お申し込みサポート部の吉見でした。


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