ゴマと箸

投稿者:
ライフネット生命 スタッフ

はじめまして。
5月に入社したシステム部の吉見と申します。

先日、社長の出口がエレベーターの中で、「冷やし中華のゴマを箸でつまんで全部食べた」という話を楽しそうにしていました。
なぜそのような話題になったのか、また、その話を聞いた人の反応は・・・それはさて置き。
箸の技巧について、よくモチーフにされるのは黒豆とか、蝿(これはちょっと文脈が違う?)とか。
しかし、まさかゴマとは。それって、超絶技巧!

この話を聞いて、ロラン・バルトが箸について語っていることを思い出しました。
ロラン・バルトって何者?と訊かれると困ってしまうのですが、卒論でとりあげたこともあり、私にとってはとても思い入れのある人。
自身を名指すもの(記号)から常に逃れてきた人なので、現代思想家、構造主義者、ポストモダニスト、記号論者、文芸批評家・・・と色んな紹介のされ方をします。私にとっては、詞藻豊かな「粋人」といったところでしょうか。
このロラン・バルトの著作に日本論、『表徴の帝国』(宗左近訳 ちくま学芸文庫)というのがあります。
表徴とは「しるし」や「記号」のこと。タイトルが意味しているのは、西洋社会が「意味の帝国」であるとするなら、日本は「表徴の帝国」である、という対比的文脈です。
その中の「箸」という断章に以下のようなことが書かれています。

(以下、「」内はp30~p34から引用、・・・は中略)
「箸は、食べものを皿から口へと運ぶ以外に、おびただしい機能をもっていて(単に口へと運ぶだけなら、箸はいちばん不適合である。そのためなら、指とフォークが機能的である)、そのおびただしさこそが、箸本来の機能なのである。」

そして、4つの箸の機能を挙げます。

①指示するという機能
「箸は、食べものを指し、その断片を示し、人差指と同じ選択の動作をおこなう」
「瞬間のうちにこれを選択し、あれを選択しないという動作を見せながら、食事という日常性のなかに、秩序ではなく、いわば気まぐれと怠惰とをもちこむのである」

②つまむという機能
「食べものを持ちあげたり、運んだりするのにちょうど必要以上の圧迫が、箸によって与えられることはない」
「人が赤ん坊の身体を動かすときのような、配慮のゆきわたった抑制、母性的ななにものか・・・が存在する」

③分離するという機能
「西洋の食卓でのように切断して取りおさえるかわりに、二つに分け、ひきはなし、取り上げるもの」
「箸は決して食べものを暴行しない」

④運ぶという機能
「二本の手のように組みあわされて・・・支えとして・・・食べる人の唇のところまで持ち上げる」

バルトの慧眼は、西洋の食事の習慣は、槍(フォーク)と刀(ナイフ)で武装した狩猟の動作であるとし、この動作との対照を箸をめぐる所作に見出しています。
切断し、刺す、のではなく、指し示し、つまみ、ひきはなし、運ぶ、のだと。

う~む。なるほど。

そういえば、4歳になる私の息子。
先日、プチトマトをフォークで突き刺したときに、中身がプチっと飛んだことにイラだったようで、「お箸ちょうだい!フォークだとグチャグチャになっちゃうよ~」と憤っていました。
彼の国の粋人が如く「食べものを暴行しない」といった洗練された表現ではありませんが、箸というものの本質を語っているような。

ようやく箸が使えるようになってきた息子に、バルトの言葉を伝えられるのはかなり先の話になりそうです。
なので、まずは黒豆に、そしてゴマにチャレンジさせてみようかな、と。

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